外国領土への欲望をどう理解するか
戦後日本の平和教育では、「他国の領土を欲することは侵略であり悪である」という規範が深く内面化されてきた。日本国憲法第9条の精神と相まって、武力による国境変更はもちろん、外交圧力や経済的手段を用いた領土拡張さえも道義的に忌避される。
しかし、米国の歴史的アイデンティティはまったく異なる軌跡を辿ってきた。1803年のルイジアナ買収、1845年のテキサス併合、1848年の米墨戦争によるカリフォルニア獲得、1867年のアラスカ購入、1898年のハワイ併合とフィリピン・グアム・プエルトリコの割譲――米国は建国以来、購入・交渉・武力のあらゆる手段を駆使して領土を拡大し、大陸国家から世界覇権国家へと変貌を遂げてきた。領土獲得は米国にとって「恥ずべき過去」ではなく、「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」として正当化されてきた国民的物語の核心だ。
2026年1月、トランプ大統領がデンマーク領グリーンランドの「購入」を公然と要求し、拒否に対して同盟国への関税制裁を発動する事態は、この米国的論理が21世紀の国際秩序に正面から挑戦するものとして理解されるべきだろう。本稿では、なぜ世界最大の島が最高レベルの安全保障問題となっているのか、その地政学的・資源的・法的背景を解説する。
2026年1月の激震
2026年1月17日、トランプ大統領はSNSプラットフォーム「Truth Social」で欧州8カ国(デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、英国)への新規関税を発表した。2月1日から全輸入品に10%の関税を課し、6月1日には25%へ引き上げる。
「この関税はグリーンランドの完全かつ全面的な購入に関する合意が成立するまで継続される」と明言し、「米国は150年以上にわたりグリーンランド取得を試みてきた。数世紀を経て、デンマークは報いる時が来た。世界平和がかかっている」と述べた。
この発表の直前、デンマークの要請を受けた欧州NATO諸国がグリーンランドの首都ヌークへ軍事要員を派遣していた。「アークティック・エンデュランス(北極の忍耐)作戦」と名付けられたこの演習は、フランス15名、ドイツ13名、スウェーデン、ノルウェー、英国からも少数の将校が参加した。トランプ政権はこれを「米国の安全保障を妨害する危険な状況」と非難した。
デンマークのラスムセン外相はホワイトハウスでのバンス米副大統領との会談後、「根本的な意見の相違が残っている。大統領がグリーンランドを征服したいという意思は明らかだ」と語った。欧州連合は緊急会合を招集し、2023年採択の「反強制手段(貿易バズーカ)」発動を検討。これは第三国からの経済的圧力に対抗する法的枠組みだが、同盟国である米国に適用される事態は想定外だった。
地政学的「チョークポイント」としてのグリーンランド
グリーンランドが米国の安全保障にとって死活的に重要な理由を理解するには、北極点の上空から地図を俯瞰する必要がある。グリーンランドはロシア・中国と北米大陸を結ぶ最短弾道ミサイル軌道のほぼ真下に位置する。
グリーンランド北西部のピトゥフィク宇宙基地(旧チューレ空軍基地、2023年改称)は米国防総省最北端の施設。米宇宙軍が運用するAN/FPS-132改良型早期警戒レーダーは、約4,800キロ以上先で発射された弾道ミサイルを探知・追跡し、北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)のミサイル警報体制の中核を担う。

ピトゥフィク宇宙基地のレーダーレドーム(Wikipedia)
また「GIUKギャップ」(グリーンランド・アイスランド・英国間海峡)は、ロシア北方艦隊がコラ半島の母港から大西洋へ進出する際に必ず通過する戦略的隘路である。冷戦期、NATOは同海域に水中聴音システムを展開しソ連潜水艦を監視した。現在もロシアの潜水艦活動は「冷戦レベルに匹敵するか、それを上回る」と評価されており、NATOの監視能力は北大西洋防衛に不可欠である。
さらに中国は2018年に「極地シルクロード」構想を発表し、北極圏を一帯一路の第三回廊と位置づけた。中国は自らを「近北極国家」と称し、2022年以降、中露海軍はアラスカ沖で共同作戦を実施している。米国にとってグリーンランドの「完全管理」は中露の北極進出を阻止する防波堤を意味する。
眠れる資源大国
グリーンランドは世界第8位のレアアース埋蔵量(約150万トン)を有し、探査が進めば世界第2位に浮上する可能性がある。南部のクヴァネフェルド鉱床は埋蔵量1,100万トン以上とされ、世界第3位の陸上レアアース堆積物である。電気自動車モーター、風力発電機、F-35戦闘機の誘導システムに不可欠なネオジム、プラセオジム、ジスプロシウム、テルビウム等を含む。
現在、レアアース精錬の約90%を中国が支配し、米国防衛産業のサプライチェーン脆弱性は国家安全保障上の重大リスクである。トランプ政権はグリーンランド資源を管理下に置くことで、この依存脱却を図る狙いがある。
ただし課題も多い。鉱石品位は1.4%と豪州マウントウェルド(6.4%)や米国マウンテンパス(約6%)より低い。厳しい気候とインフラ不足も採掘コストを押し上げる。さらに2021年、グリーンランド議会はウラン採掘禁止法を可決し、ウラン含有量の高いクヴァネフェルド開発は事実上阻止された。専門家は「実用化まで少なくとも10年以上」と指摘する。
「領土割譲交渉」の正体と法的障壁
米国がデンマークから領土を購入した前例がある。1917年、第一次大戦下でドイツのカリブ海進出を阻止するため、米領ヴァージン諸島(セント・トーマス、セント・ジョン、セント・クロイの3島)を2,500万ドルの金貨で購入した。「敵対勢力への流出阻止」という名目は今日と共通する。
しかし2026年の最大障壁は「住民自決権」である。2009年のグリーンランド自治法は、前文で「グリーンランドの人々は国際法上の自決権を有する人民である」と明記している。同法第21条により、独立は住民投票とデンマーク議会の承認によってのみ実現しうる。デンマーク政府が売却を望んでも、住民同意なしには実現できない法的構造が存在する。
世論調査では米国支配に圧倒的多数が反対している。2026年1月、ヌーク市内では「我々は売り物ではない」と訴えるデモ行進が行われ、グリーンランド国旗が至る所に掲げられた。
日本・アジア・NATOへの波及
第一に、NATO同盟の危機である。同盟国への経済制裁と領土割譲要求はNATO史上前例がない。欧州諸国がグリーンランドに軍を派遣した事実は、大西洋同盟内の深刻な亀裂を示す。デンマークのポウルセン国防相は「NATO加盟国が別のNATO加盟国を攻撃するとは考えられない」と述べたが、NATOの信頼性が損なわれれば、日米同盟を含むアジアの同盟関係にも波及効果が及ぶ可能性がある。
第二に、資源安保への影響である。米国がグリーンランド資源を管理すれば、日本は中国依存(約6割)を軽減できる可能性がある。ただし開発には長い年月を要し、短期的解決策にはならない。
第三に、国際秩序への影響が最も深刻である。「金と力による国境変更」が同盟国間で容認される先例は、台湾海峡や南シナ海、その他の係争地域での現状変更に正当性を与えかねない。「ルールに基づく国際秩序」を標榜する米国自身がルールを破壊するという皮肉な事態である。
6月の「25%関税」期限に向けて
6月1日の25%関税期限まで、合意成立か、貿易戦争本格化かは予断を許さない。
トランプ大統領の「本気度」精査が必要だ。11月中間選挙を控え、国内向けパフォーマンスの可能性もあるが、トランプ政権の予測不可能性を考慮すれば楽観視は禁物。実際に軍事行動に踏み切るリスクは低いとの見方が大勢だが、関税という経済的圧力は既に現実のものとなっている。
デンマークは2025年10月、約85億ドル規模の防衛投資(北極防衛強化とF-35戦闘機16機の追加購入)を発表した。グリーンランドでは「売却」ではなく「独立」という第三の選択肢も浮上している。
日本にとって、これは米欧間の紛争ではなく国際秩序の根幹に関わる問題だ。同盟国の行動を黙認するか、「ルールに基づく秩序」擁護者として懸念を表明するか――難しい判断を迫られる可能性がある。少なくとも情報収集と分析の強化、北極圏動向への関心向上が求められる。
グリーンランドをめぐる対立は、21世紀の国際秩序が直面する根本的な問いを突きつけている。強大国はカネと力によって国境を変更しうるのか、それとも「同意なき領土変更は認めない」という原則が維持されるのか。その回答は、北極の氷上だけでなく、世界中の係争地域の将来を左右することになる。


