1月3日に起こった米軍による中南米のベネズエラへの侵攻は、マドゥロ大統領の拘束が目的だった。新年早々に舞い込んだ大国による周辺国への軍事行動には、世界中に大きな衝撃を与えた。Seculligenceではこのインパクトについて、前編でマドゥロ大統領拘束に至る経緯と米軍の情報作戦、後編で事件が世界経済や台湾有事に与える影響をお届けする。
【前編】石油大国 ベネズエラの崩壊と米国の「絶対的決意」—— マドゥロ拘束の全内幕
反米の牙城崩壊と 「新モンロー主義」の幕開け
ベネズエラ大統領のニコラス・マドゥロ氏がニューヨークへと連行されたという一報は、単なる一独裁者の失脚を意味するものではない。それは、冷戦終結後、米国が中南米――いわゆる「米国の裏庭」において、他国の主権を無視した直接的な体制転換を強行する「新モンロー主義」の時代の幕開けを象徴している。
ワシントンでは、従来からベネズエラ、キューバ、ニカラグアを「暴政のトロイカ」として批判してきたマルコ・ルビオ国務長官ら政権幹部が勝利を主張する一方で、北京とモスクワでは、これまでにない「静かな、しかし深い怒り」が渦巻いている。
中国が失った「デジタル要塞」と 620億ドル
中国にとって、ベネズエラは中南米における最大の投資先であり、対米牽制の戦略的拠点であった。過去15年間に中国が注ぎ込んだ融資額は累計620億ドル(約9兆円)を超え、その多くは石油による返済が条件となっていた。さらに2025年後半には、米国の制裁下にもかかわらず、中国の民間企業がベネズエラの油田開発に10億ドル規模の追加投資を行った。マドゥロ政権の崩壊は、これらの債権が紙屑と化すリスクを孕んでいる。
しかし、中国が最も危惧しているのは経済的損失ではない。マドゥロ氏拘束という大事件の陰に隠れているが、米軍は対中経済競争を勝ち抜き、中国の治安体制を崩壊させることさえもできる「宝の山」を手に入れたようだ。
米情報関係者は「中国が最も懸念するのは、中興通訊(ZTE)などが提供した『祖国カード(Carnet de la Patria)』に代表される、顔認証と連動した「デジタル権威主義」の輸出モデルが米軍の手に渡ることだ」と指摘する。
「祖国カード」は表向きには社会福祉プログラムの配給カードだが、その実態は国民監視システムの中核を成す。このカードには個人の生体情報、政治的傾向、SNSでの発言、デモへの参加履歴などがすべて紐付けられている。カードを通じて、食料配給、医療サービス、公共交通機関の利用、さらには就職や教育へのアクセスまでが管理され、政権に批判的な市民は事実上、生活の糧を断たれる仕組みとなっていた。

ベネズエラが中国から導入した「祖国カード」
このシステムは中国の技術を基盤としている。中国国内では、新疆ウイグル自治区で2017年以降、同様の顔認証システムと「社会信用スコア」が結合され、ウイグル族住民の大量拘束と強制労働に利用されてきた。街角に設置された数百万台の監視カメラがAIによる顔認証で市民の行動を24時間追跡し、政府が「問題あり」と判断した人物を自動的に抽出する。モスクへの礼拝、親族との通話、海外送金、すべてがデータ化される。スコアが一定以下になると、突然自宅から連行され、「再教育施設」へ送られる。
中国はこの「成功モデル」を、ベネズエラを皮切りに、世界中の権威主義国家へ輸出してきた。ジンバブエでは野党支持者の特定に、エクアドルでは犯罪者追跡の名目で同様のシステムが導入された。中国政府は「治安維持」や「効率的な行政」を謳い文句に、顔認証技術、監視カメラ、データ解析AIをパッケージとして販売している。しかしその真の目的は、独裁政権が反対派を効率的に弾圧するための「デジタル監獄」の構築である。
米軍が接収したデータベースから、中国の技術がいかにして反対派の監視や食料配給のコントロールに転用されていたかの実態が暴かれる日は遠くない。
北京の外交筋は「米国の侵略は国際法への重大な挑戦だ」と強く非難しているが、その本音は、自国のハイテク独裁のノウハウが西側に「解剖」されることへの恐怖にあると言えるだろう。ベネズエラでの「成功例」が崩壊し、その内部メカニズムが白日の下に晒されることは、中国の「デジタル・シルクロード」戦略全体への打撃となるばかりか、自国の治安体制すら大打撃を受けかねない。
プーチンの「カリブ海要塞」終焉
ロシアにとっても、マドゥロ氏拘束は手痛い地政学的敗北であると言える。プーチン政権は、カリブ海を米国の喉元を突く「要塞」として活用しようと目論んでいた。2018年には核兵器搭載可能な超音速爆撃機Tu-160(ホワイトスワン)をベネズエラに派遣し、米国のミサイル防衛網を嘲笑ったのは記憶に新しい。
「マドゥロの身辺警護には、ロシアの民間軍事会社「ワグネル・グループ」の残党が深く関与していた。今回の作戦実行に際して、彼らがなぜ沈黙したのか、米軍と秘密取引していたのか、今後ロシアのベネズエラ工作で多くのことが明らかになる」(前出の米情報関係者)
モスクワは既に「米国の海賊行為に対しては、非対称な対抗措置を検討する」と示唆しており、ウクライナや中東におけるロシアの軍事的行動が、このベネズエラ情勢とリンクして激化する恐れがある。
石油がもたらす「限定的な恩恵」、日本経済への影響
ベネズエラの「解放」は、世界のエネルギー地図を塗り替えるポテンシャルを秘めている。トランプ大統領は「アメリカの石油会社がベネズエラを動かし、世界を安価なエネルギーで満たす」と豪語した。
長期的には、米系メジャー(シェブロン、エクソンモービル等)による数兆円規模の投資により、老朽化した設備の再建が進めば、ベネズエラの原油生産は徐々に回復する可能性がある。ただし、ピーク時の日量300万バレルへの復活には5年以上を要し、世界的な供給過剰基調が続く中、ベネズエラ一国の増産が原油価格に与える影響は限定的と見られる。
むしろ注目されるのは、この地域への米国の影響力拡大と、中国の「石油担保融資」モデルの挫折という地政学的な意味合いだ。
他方で短期的には、ベネズエラ情勢の緊迫化により原油市場で一時的な供給懸念が生じたものの、同国の生産量が世界全体の1%未満であることや、世界的な供給過剰基調が続いていることから、価格への影響は限定的になる。日本にとっての懸念は、円安が続く中での輸入コスト全般の高止まりであり、ベネズエラ情勢は数ある不確実要因の一つに過ぎない。
またベネズエラ産の重質油は、米国メキシコ湾岸や中国の製油所でディーゼル燃料などの原料として利用されてきた。日本の製油所は主に中東産の中質・軽質原油を処理しており、ベネズエラ産重質油への依存度は低い。
台湾有事への危険な precedent
最も深刻な地政学的リスクは、米国の「警察権行使」という論理が、東アジアにおいて逆用される懸念である。
米国はマドゥロ氏を「麻薬テロ容疑の指名手配犯」として拘束した。この「主権国家の指導者であっても、重大な犯罪容疑があれば他国が軍事力を行使して拘束できる」という主件免除を無視した論理は、中国にとって台湾有事における絶好のプロパガンダ的口実となり得る。
もし中国が「台湾の指導部はテロリズムを支援している、あるいは中国の国内法に違反している」と宣言し、「安定維持のための法執行」を名目に台湾を封鎖、あるいは侵攻した場合、米国は自らのベネズエラでの行動との整合性をいかに保つのだろうか。南シナ海においても、中国は自国の「国内法」を楯に、米国の航行の自由作戦を「犯罪行為」と定義し直す危険性がある。
そして、マドゥロ氏がニューヨークの連邦裁判所で裁かれることは、単なる麻薬容疑の審理に留まらない可能性が高い。
「米司法省はこれまでにマドゥロ政権と中国、ロシアとの間の金融取引、武器取引、汚職の証拠を大量に押収している。それに加えて、今回の作戦で米軍が『祖国カード』データベースを確保したことで、620億ドルに上る融資から中国の国家指導部や企業へのキックバックも解明される」(同上)
ロシアについても、ワグナー・グループを通じた武器供与や、金鉱山の採掘権と引き換えの秘密資金提供などが明らかになる可能性がある。これらの証拠が法廷で公開されれば、中国とロシアの権威主義国家支援ネットワークの実態が国際社会に晒されることになる。
ただし、中露がそれを漫然と受け入れることはない。
マドゥロ氏拘束は、独裁への鉄槌という「正義」と、主権の不可侵という「秩序」を天秤にかけた米国の選択である。
米国が国内法を武器に主権国家の指導者を軍事力で拘束するという precedent を作った2026年、この論理を中国が逆用すれば、台湾有事は「犯罪者の拘束」と正当化される。私たちは、ベネズエラの石油がもたらす経済的恩恵を享受する前に、大国が「勢力圏」で実力行使を常態化させる極めて不安定な時代に突入した。
ベネズエラの夜明けは、世界秩序の黄昏でもある。


